FAQ 佛教問答
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世の中のすべてのことは、どうして起こるのですか。すべてのことは必ず種のようにもとになる原因があり、それを助ける条件やさまざまな力の組み合わせによって、結果が起こるものです。このことを「因縁」といいます。
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私たち人間についても、因縁がありますか。はい、あります。必ず因があり、ほかの縁によって動かされています。
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私たちは生きている限り、いつも他人と関係があるのですか。そうです。網の目のようにすべてのことが互いに因となり、縁となって結び合っています。だから、私たちが良い人になろうとすることは、すべての人がよくなる力のもとになることができます。反対に、私たちが悪い行いをすると、それが因縁になって世の中の全体に悪い結果をおこすことにもなります。このように世の中のすべてのことは因縁によって起こりますので、「縁起」ともいいます。
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この世界はいつまでも変わらず続くのでしょうか。いいえ、この世のすべてのものはきまった形で続くことはなく、必ず変わります。このことを「無常」といいます。
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なぜ変わるのですか。温度によって水が氷になったり、水蒸気になったり雲や雪になるように、因縁によって今の形があるのですから、今からの因縁が変われば今の形も変わります。これこそ、変わらぬ本当の形というものはありません。
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因縁が変わるといっても、変わらないものもあるのではないでしょうか。いいえ、どんなものでも他のものと離れて一人でいることはできませんので、いつ・どこで・どんな縁が起こり変わるかわかりません。ですから、今の形は仮の形というわけです。
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では私たち人間も、仮の形ということでしょうか。そうです。因縁によっていろいろの物が集まり、この私の身体と心ができ上がっています。どんな因縁で、大きな怪我をするかもしれません。ですから、今の身体を大切にしたいものです。くわしくいえば、私は毎日変わっています。
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六つの心とは、どんな心ですか。天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・そして地獄という六つの世界の心です。
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天の世界の心とは、どんな心ですか。うれしい気持ちがいっぱいで、自分のこと以外は考えない心です。だから、すっかり得意になって夢中でいる時のことを「有頂天」ともいいます。
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人の世界の心とは、どんな心ですか。ふつうの人間の心のことで、苦しいことがいっぱいの心です。
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どんな苦しいことがありますか。「四苦八苦」といわれています。
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四苦八苦とは、どんなことですか。①生まれる苦②年老いる苦③病気の苦④死ぬ苦⑤好きな人や物に別れねばならない苦⑥大嫌いなことに会わねばならない苦⑦ほしいものを得られない苦⑧思うようにならない身体の働きの苦の八つです。
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阿修羅の世界の心とは、どんな心ですか。争うことに夢中になる心で、けんかや戦争をして他人に勝とうとし、法律に背き、社会のきまりを破り、自分のことを忘れる心です。このことから「我無修羅」という言葉もあります。
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畜生の世界の心とは、どんな心ですか。犬や猫のように、恥じを知らない心です。
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恥を知らないとは、どんなことですか。自分が受けた親切を忘れ、他人に迷惑をかけても平気でいるようなわがままなことを「恥しらず」といいます。
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餓鬼の世界の心とは、どんな心ですか。いつも何かほしいと飢えている心のことです。
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地獄の世界の心とは、どんな心ですか。他人の欠点を探してそれをさばき、責め、いじめ、そして自分自身も責め、いじめられ、いつまでも苦しんでいる心です。
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私たちは日頃、どの世界の心にいますか。あるときは餓鬼(なにかほしい)の心、あるときは天(うれしい)の心と、朝から晩まで絶えず変わって六つの世界をぐるぐる回っています。親鸞さまは「地獄は住みかである」といわれました。このような人の世を「シャバ」とも「迷いの世界」にいるともいいます。
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天(うれしい)の世界の心が、幸福なのではありませんか。いいえ、ちがいます。自分は楽しいと思っていますが、長くは続かずいつか破れます。そしてその後には、かえって苦しみの原因となります。またうれしい心といっても自分だけで、みんな別々の世界に住んでいるので、さびしい思いです。
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どうして人間は、同じ地球に住んでいながら、心は別々の違う世界をつくるのですか。兄弟でも性格が違うように、人はそれぞれ生まれた場所が違い、育てられた生活が違うため、行いや心も違う働きをするからです。
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この世の人々は、皆迷っているのですか。いいえ、迷いの心を離れた、別の清らかな世界の心を持った立派な人たちもおられます。
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立派な人とはどんな人ですか。自分だけが幸福になればよいという利己主義の人でなく、自分の勉強したことやお金を、社会のために役立てようとする人が本当に立派な人です。もっと言いかえると、心と行いが六つの迷いの世界を離れて、迷わない世界の心を求める人こそ、立派な尊い人といえます。
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迷わない世界とは、どんな世界ですか。声聞・縁覚・菩薩・佛の四つの世界のことです。
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声聞の世界の心とは、どんな心ですか。正しい教えを聞いて、人の世の本当の姿を知ろうとする心です。
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縁覚の世界の心とは、どんな心ですか。いろいろのことに出会った時、一人で正しい道理に気づき、自分を反省する心です。
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菩薩の世界の心とは、どんな心ですか。正しい道理を求めつつ、他人とともに本当の幸福な世界に住もうと願い、努力する心です。
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佛の世界の心とは、どんな心ですか。あらゆる欲の心を離れ、真理を悟り、すべてのものを助けようとしておられる清らかな心であります。この佛の世界を「浄土」とも「極楽」ともいいます。
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私たちも迷いのない世界の心になることができますか。はい、できます。それにはまず、自分の本当の姿を知ることが大切です。
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人は今のこの世が終わると、また人間に生まれ変わるのですか。昔から生まれ変わった、と言う人がいると聞いたことはありません。私のこの命は、ただ一つだけの貴重なものです。
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人は死んだらどうなるのですか。身体は、水分や煙・灰などに姿を変えてしまいます。
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そのほかに、何も残らないのですか。いいえ、自分の業が足跡のように残ります。
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業とは、どんな意味ですか。業とは行い、働きということで、私が生きている間、手足で行うこと・口で言うこと・心で思うこと、の三つの行いのことです。これを「身口意の三業」といいます。このことから業欲・非業・業がわく、などという言葉があるのです。
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自業自得とは、どんな意味ですか。「自分でまいた種は、自分でかりとらねばならぬ」といわれることで、自分の行ったことは、必ず自分で責任をとらねばならないという意味です。言い換えると、良い種をまけば良い実がなり、悪い種をまけば悪い実がなるように、良い行いをすれば楽しみという良い結果が起こり、悪い行いをすれば苦しみという悪い結果が起こるということをあらわす言葉です。
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いくら良いことをしても、良い結果が起こらないのではありませんか。いいえ、そんなことはありません。因果(因縁と結果)の法に、間違いはありません。ただ、自分が良いことをしたと思っていても、その中に気付かない悪い種のまじっていることが多く、私たちが、良い悪いの正しい区別や判断ができないため、思い違いをしているのです。
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良い悪いの区別は、どのようにつけますか。良い悪いの区別には、およそ三つの考え方の違いがあります。
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三つの考え方とはどんなことですか。①国の法律を守るか守らないかということの良い悪い。②社会の道徳を守るか守らないかということの良い悪い。そして、③佛教を聞いてからの良い悪い、の三つの考え方です。
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佛教での悪い業とはどんなことですか。十悪といわれるもので、一つずつ説明すると①生き物や人間を殺したり、いじめたりすること。これを「殺生」といいます。
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では、毎日食事のために魚や肉を食べていることも悪いことですか。そうです。普通、世間や社会では別に悪いことだとはいいませんが、命あるものを自分の都合のために殺すことは悪いことです。だから親鸞さまは、自分の身のために食べ物となった生き物の生命にたいして、両手を合わせて拝まれました。
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次にどんな悪がありますか。②他人の物や公共の物を盗んだり、ごまかしたりすること。③男と女の間で礼儀を守らず、みだらな行いをすること。今までの三つは、身体の悪業です。次に、四つの口の悪業があります。
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四つの口の悪業とは、どんなことですか。④他人を迷わせるような誤った考えの話をすること。⑤大げさに飾って、本当のことと違った話やおせじを言うこと。⑥前に話したことと、後から話したことが違う「うそ」を言うこと。⑦他人をけなしたり、傷つける悪口を言うこと。この四つです。このほか、悪業のもとになる3つの意の悪業で「三毒の煩悩」といわれるものがあります。
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三毒の煩悩とは、どんな業ですか。⑧貪欲⑨瞋恚⑩愚痴の三つです。
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貪欲とはどんな業ですか。欲張りのことで、他人の物を見ては羨ましく思い、自分の物は他人に分けてやりたくないという、いつまでも満足することのない心の働きのことです。
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瞋恚とはどんな業ですか。怒りのことで、自分の思うことが叶わない時、しゃくにさわり腹を立てて他人が悪いと憎む心の働きのことです。
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愚痴とはどんなことですか。おろかなことで、正しい道理や善悪の区別もわからないのに、自分の間違った考えを正しいと思い込み、過ぎ去ったことをくよくよ悩み、まだ来ない先のことを心配する、不平不満のおろかな心の働きのことです。
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この十のことはなぜ悪いのですか。相手のことを考えないで、自分だけよくなりたいと思い、他の多くの人を苦しめていながらそれに気付かないで、平気でいるから悪いのです。これを罪といいます。
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罪な業をつくるものは何ですか。それは、無明(光がなく道理にくらいこと)だからです。私に二つの目があっても、それは物の表面しか見ることが出来ず、自分自身の本当の姿や値うちもわからず、自分の間違った見方、考え方を改めないことです。心の目があいてなくて暗いことです。
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こんなことを聞いていると、私自身は情けないほどつまらない、汚い心の人間になっているではありませんか。そうです、悲しいことです。「私も同じです」と、親鸞さまは言われました。だから、早くこのような汚い心の世界を離れて、清らかな心の世界に行きたいものです。
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清らかない世界に行くには、どうすればいいのですか。それは佛様の教えを聞いて、佛様に導いていただくほかはありません。
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佛様とは、祖先や死んだ人のことですか。いいえ、祖先や死んだ人たちが、そのまま佛様ではありません。
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ではなぜ、祖先を佛様として拝むのですか。それは、亡くなった祖先の方が佛様の徳をいただいて、佛様と等しくなっているからです。
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佛様は、寺や仏壇の中におられる方ですか。そうです。木像や絵の姿をされた佛様です。
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すると、佛様は木像や絵に描かれたもので、人形のようなものですか。いいえ、木像や絵の佛は、私たち人間の目に見えない佛様の心を私たちにわからせようと、現われてくださった姿です。
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目に見えない佛様は、どこにおられるのですか。私たちが、山に行っても川に行っても、どこに行ってもいつも一緒におられます。目に見える仏壇だけにおられるという、限りのある方ではありません。限りの無い方だから「アミダ」佛というのです。
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ニョライ様ともいうではありませんか。そうです。くわしくは、ナモアミダブツ・阿弥陀如来・南無不可思議光如来ともいいます。短くして如来というのです。
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どうしてそんなにいろいろな呼び名があるのですか。たとえば、一人の人間でも、〇〇さん・お母さん・おふくろ・奥さんなどと違った呼び名があるようなものです。
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佛様とはどんな方ですか。限りない智慧と、限りない慈悲を持たれた方です。
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限りない智慧とは、どんなことですか。この世のすべてのことについて、本当の道理をすべて知り尽くしておられることです。
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すると、私たちの心の中までも知っておられますか。そうです。私たち自身でも気づかない、深い心の隠れたところまで、佛様はすっかり知っておられます。
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限りない慈悲とは、どんなことですか。すべてのものを助けずにはおられないという、お母さんの心のような、情け深い願いを持っておられることです。
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犬や猫も助けたいと思っておられますか。そうです。鳥やけだもの・草木にいたるまで、すべてのもののことを思っておられます。
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佛様は私たちのことを、どう思っておられますか。間違ったことをして苦しみ悲しんでいる私たちを見られて「かわいそうでたまらぬ、早く正しい道を教えて、誤りを直して幸福にしてやりたい」と、自分の子どものように思い、いつも離れず励ましてくださいます。
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佛様はどのように拝むのですか。インドの人たちのように、両手を合わせて、口に佛様のみ名を称えて拝みます。
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佛様を拝むと、病気を治してもらえますか。はい、病気を治してもらえます。しかしそれは身体の病気ではなく、心の病気です。
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心の病気とはどんなことですか。欲張り・怒り・おろかなことの三つの病気などです。
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どんな気持ちで佛様を拝むのですか。私は、佛様を敬います。皆と一緒にまことの道を進んで、良い心を起したいと思います。私は、佛様の教えを敬います。皆と一緒に一心に教えを聞いて、智慧の暮らしをしたいと思います。私は、佛様の教えを信じる人たちを敬います。皆と一緒にすべての人たちと仲良く、平和な暮らしをしたいと思います。という気持ちで拝みます。
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大人同士で挨拶をするとき「おかげで元気です」とよく言いますが、「おかげ」とはどんな意味ですか。私を今まで元気に生かし育ててくれた多くの力が、自分でも気づかない、知らないところで用意してあったという、かくれて見えないカゲの力があるという意味で、「おかげ」と言うのです。たとえば、私たちの健康を守る予防薬など、外国の昔の人たちが研究してくださった「おかげ」ということができます。
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どんな「おかげ」がありますか。父母の恩・衆生の恩・国の恩・三宝の恩、そして先生や友達の恩などがあると、お釈迦様は教えられました。
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三宝の恩とは、どんなことですか。佛様・真実の教えの法・佛様の教えに従う人たち(佛・法・僧)のことを三宝といい、この三つの宝によって、私たちが恩を知り、本当の幸福の道を教えていただいた「おかげ」のことです。
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先生や友達の恩とは、どんなことですか。知らなかったことを正しく教えてくださり、私たちが一人前になって社会の役に立つよう、いつも励まし導いてくれる学校や、社会での多くの先生や友達のおかげのことです。
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このような恩(おかげ)を受けているとすると、私は一人では生きていけないということですか。そうです。私たちは、この世に一人では生きていけません。多くの人々、すべての物に助けられて私たちは生きています。特に、病気や災害を受けた時など、他の人々や物の力のおかげが必要です。ですから、このような多くの恩に気が付いた私たちは、ご恩に報いるよう生きたいものです。
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恩に報いるとは、どんなことですか。いつも恩(おかげ)を忘れず、「ありがとう」とお礼を言い、恩返しする行いをすることです。
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衆生(すべての生き物)の恩には、どのように恩返ししますか。恵まれたものを無駄にしないよう、最大に活用することが大切です。例えば、食事の前には「いただきます」、後には「ごちそうさま」と両手を合わせて感謝し、食べて元気になった力を良いことに使いたいと願います。
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三宝(佛様・教え・従う人)の恩に報いるには、どうすればよいのですか。①三宝に両手を合わせて拝みます。②三宝を尊び、口でほめ唱えます。③佛様の国に行きたいと願います。④佛様の教えを勉強します。⑤佛様の教えに従い、行います。この五つが報恩になります。
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三宝を尊んで、どのように唱えるのですか。ただ「ナモアミダブツ」と唱えます。
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佛様はどんなことを心がけて行うよう、教えられましたか。お釈迦様は良い生き方をするため、八つの正しい道と、六つの立派な行いをすすめられました。
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八つの正しい道とは、どんなことですか。①正しい見方②正しい考え方③正しいことば④正しい行い⑤正しい生活⑥正しい努力⑦正しい目標⑧正しい落着き、の八つです。
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正しい、正しくないはどうしてわかりますか。自分一人で、正しい正しくないと判断すると誤りが多いので、常にすべての人、そして佛様によく聞くように努め、自分を反省していると、次第に正しい道がわかります。
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六つの立派な行いとは、どんなことですか。①他の人々に喜びを与えること。これを「布施」と言います。②互いに、きまりを守ること。③わがままを言わず、辛抱強いこと。④良いことを、一生懸命にやること。これを「精進」と言います。⑤落ち着いて考えること。⑥正しい智慧を持つこと。
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布施というのは、どんな意味ですか。インドの言葉で「ダンナ」といいます。他の人に恵み、施すことです。
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他人に施し、喜ばせるには、物がなくてはできないではありませんか。いいえ、物や金はなくても、人に施し喜んでもらえる方法があります。
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それはどんなことですか。①やさしい目つき、②にこやかな顔、③いたわり深いことば、④親切な行い、⑤思いやりの心、⑥席をゆずる、⑦家を役立てる、という七つのことや、佛さまの教えを伝えることなどです。
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たがいに守るというきまりには、どんなことがありますか。社会には守らねばならない多くの法律や道徳のきまりがありますが、その中でも「世界の平和を守り、戦争をしないことが一番大切である」と、聖徳太子は教えられました。
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ではどうすれば戦争を起こさないようになり、平和になることができますか。皆が正しい教えに従い、お互いに相手の国の人々と話し合い聞きあって、相手の心を知り許しあうことが第一です。とかく人間は、多く集まると三毒の煩悩(欲張り・怒り・おろかさ)が盛んになりますから、ひとりひとりが強く平和を願うことが大切です。
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正しい智慧とは、どんなことですか。進まねばならないことと、退かねばならないことを知って、自分の道を失わず「空・無我」の道理を知ることです。そうすると、すすんですべての人の幸福を願い、自分だけ良ければ良いという心を離れることができます。