如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまひて 大悲心をば成就せり
私たちは何が目的でこの世へ生まれてきたのでしょうか。
それにはまず、人間と畜生との違いから判断してみましょう。犬でも猫でも、牛でも馬でも、みんな目が二つ、耳が二つ、鼻や口は一つ、手足は二本、形は少々違うが人間と同じです。だが人間にだけあって畜生にないものが一つだけあります。それは言葉です。言葉は教えの始まりで、言葉のある人間には夢も希望もあります。進歩発展文化向上は皆言葉のおかげです。そこで言葉のある人間なら一人残らず、みんな幸せになりたいと思っております。だから人間がこの世へ生まれてきたのは、幸せが目的であったのであります。
それでは、幸せということは一体どんなことでしょう、これが問題なのです。この幸せを決める前に、人間という字を理解する必要があります。
この人間という言葉は、読んで字の如く、人間は人と人との間で生活しているのだから、「人はどうでも、おれさえよけりゃ」という畜生の根性は絶対に許さんぞという意味です。畜生は殺されたら殺され損、殺したら殺し得、盗まれたら盗まれ損、盗んだら盗み得で、弱肉強食の世界です。ところが人間は、もちつもたれつで、共同生活をする場所が三つあります。即ち、家庭と国家と社会であります。衆生共存の大義ですから、「ひとはどうでもおれさえよけりゃ」は絶対に許されません。それでは人間の幸福とはなんでしょうか、それは平和です。それだのに信仰のない人は、「お金がたまって幸せ」「立派な家ができて幸せ」「社長になって幸せ」と言っていますが、それは間違いであります。そんなことは優越感の満足といって、人はどうでもおれさえよけりゃの畜生の根性が喜んでいるからです。金がたまって喜んでいるのは、貧乏人を踏み台にして喜んでいるのです。社長になって幸せと喜んでいるのは、社員を踏み台にして喜んでいるのです。こんなことは決して幸せではないのです。
お釈迦様は、「勝ちては恨を受くるべし、負けなば心安からず、勝つも負けるも打ちすてて、夜半の眠りぞ円満なる」と言われております。聖徳太子は、「和を以て尊しとなす」と言っておられます。
それでは皆様のご家庭は平和でしょうか。現在の日本はお世辞にも平和とはいわれません。家庭では親子の断絶、嫁姑はにらみ合い、夫婦は喧嘩三昧、国家は与党と野党は犬と猿、社会は資本家と労働者はストに明け暮れみんなに迷惑をかけています。平和を望みながら平和にならないのは、どこに問題があるのでしょうか。即ち、平和を邪魔する奴がおるのです。それが煩悩です。「泥棒をつかまえて見ればわが子なり」私達一人一人の胸の中に貪欲、瞋恚、愚痴の三匹の鬼がおります。この鬼を征伐しなくては絶対に平和になりません。私達はこの三匹の鬼にだまされて、人間でありながら毎日畜生の真似をしていて幸せになれるはずがありません。ところがこの鬼は、どこのどなたがかかっても絶対に退治はできませんが、「その鬼ならわしにまかせてくれよ」とおっしやる方が阿弥陀如来という仏さまであります。この仏さまは、私達に南無阿弥陀仏の六字を与えて三匹の鬼を征服し、畜生らしい生活をやめさせて人間らしい生活をさせたその上に、仏らしい生活をさせて未来は仏にしてやるぞと言われるのです。言葉をかえて云えば、真の幸福は阿弥陀さまの本願に救われるよりほかに道はないということになります。
ここで話を原点へ戻して「人間は何が目的でこの世へ生まれてきたか」の答としては、「お寺へ詣って阿弥陀さまに救われるのが目的であった」ということになります。浄土真宗、親鸞さまの教えは、死んだら極楽詣りではなく、この世が幸せになり、未来仏になる宗教です。一刻も早く寺へ参詣し、仏壇を中心に平和な家庭を造り、立派な子孫を残すことが、人間のこの世へ生まれた目的を果たしたことになるのではないでしょうか。
泣く声のよきもあしきも親鳥の 教へによるぞ藪の鶯